厭世

↑↑、↑の続き
根っからの本の虫、夜長と聞いて読書以外の発想が思い付かない。
基本的に家にいる間は寝てるかネット(主にテキストコンテンツ)か、読書。
活字を見続けないと身体が震え出す。
テレビは文字が少ないから集中して見ることが出来ない。
出演者の発言全部テロップにしてくれたら見るのに。
食事中も基本的に本読んでます。
おかげでいつも冷たい食事。


まぁ、流石に自分が書痴の類であることは自覚しているのですが、
世の人の大半が活字を追うことを厭うているというのが信じられない。
信じられないが、本日友人と長々と対談をした結果、そうらしいということを知りました。
取り立てて仲の良い友人と言うわけでもなかった彼ですが、
何だか急に得体の知れないモノのように見えてしまった。


思えば、対人関係の違和感の多くはこのことに根ざしている気がします。
私には
「文章を読むのは面倒」
「図で示してくれ」
「口頭で言ってくれ」
というのが理解できない。


文章を読むのが面倒だと言うのは、一般論じゃなくて精々が単なる怠惰でしょう。
個人的には目に入れば否応なく読むので、怠惰と言えど「呼吸が面倒」だとか、そのレベル。
……三大欲求でも睡眠まで時たま「面倒」で厭う私の言うことじゃないですが。
別に文体自体が難しい文章だとか、普段使わない言語だとかじゃなくて、
母国語の、平易な文体の文章なんて、何をするとでもなく、
「見る」=「読む」みたいなものなのではないのですか?


図で示せというのはまだ理解の余地はあるのですが、
図と文章は互いに補い合うものであったとしても、どちらかがもう一方を補完し得るものではないのではないでしょうか?
一次元の情報と二次元の情報は性質が全く違います。
おまけに二次元的な情報は一次元のそれと比べて情報量が格段に少ないはずです。
であれば、メインを一次元に据え、補いきれない分を二次元的に示すのが最善のはずです。
メインを二次元に置くのは情報量の制限に他ならない。


口頭などというのは本当に理解できない。
リアルタイムでの対話としての口頭であるなら兎も角、
発表などの場で口頭という形式を取らせるというのは、完全に理解の範囲外です。
紙やモニタ上に書かれた文字はメディアが消失しない限りいつでも見返せますが、
音はほんの1秒も経たずに消えてしまいます。
聞き逃せばそれでお終い。
そもそも理解というものを放棄しているとしか考えられません。


友人は「文章の多い資料はやる気がなくなる」と言ったのですが、
例えその場でやる気がなくなったとしても、後でいくらでも参考に出来るものの方が資料として良いと思うのです。
それそのもののみで完結し得ない、
それも補完するはずの補助資料がコンマ数秒で消えてしまう資料は、資料として完全に欠陥していると思います。
バラエティ番組のテロップほどの価値もない。
そう思うのですが、どうやら世間はそれを是としてるらしいのです。
理解できないし、
例え傲慢と言われようと、それを理解できるような人間にはなりたくない。